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夢七夜



 あまり静かなので、時間のたつのもわからない。気が付いたら、ずいぶんと雪が積もっていた。この分だと、今朝出掛けた人たちは、夜まではここに戻れないかもしれない。このあたりは、道路事情が悪いし、迎えのバスに乗る以外ここへ帰る手段はない。

 芳恵は、寝ころんで本を読むのにも飽きて、だれもいないのをいいことに、大きな伸びをした。スキーに来たのに、風邪をこじらせてしまって、もう三日間もここに閉じ込められたままだ。一週間の貴重な休暇も、こうして、窓越しに雪景色を見ているだけで終わるのだろうか。

 それにしても、あの人は、出掛けたのだろうか。 芳恵は、服を着替えようかと、一瞬迷ったが、パジャマの上にコートを引っかけて、階下に降りていく。

 このホテルは、木造の旧い西洋館で、階段の下には、書斎と小さな図書室があった。そこは本来は、オーナー専用の居住場所であるが、病気をして外に出られない芳恵を気の毒がって、ホテル側が特に使用を許してくれたのである。

 だれにも見つからないように、そっと書斎に滑り込んで、本棚の隙間からロビーの方を目を凝らして見る。そこからは、入口の様子が手にとるように分かるのだった。だから、オーナー専用の場所なのかもしれない。

 芳恵が、今知りたいことは、あの人が、まだこのホテルに入るのか、それとも、出掛けてしまったのかである。でも、なぜこんなところでまた、出会ったのだろうか。


 その人と初めて会ったときから、心臓がぎゅっと締め付けられるような思いがした。 望んだものが目の前にあるのに、自分では決して手に入れることのできないのだと直感した。一瞬のうち、頭と体が、ばらばらになったような、自分でも何を話したか、覚えていない。

 そのとき章夫は、新聞を広げて、同僚と何か笑いながら、話をしていた。それは、たわいもないこと、たとえば、ゴルフの何かのトーナメントの結果とか、スキーの積雪状況とか、決して、難しいことを議論していたわけでもないのに、芳恵は、なかなか自分の用件を言い出せなくて、立ち尽くしていた。

 そのとき、芳恵はキャリア風の高価なスーツに身を固め、一部の隙もない仕事のできる女を粧って登場した。 本当の自分を知ってもらいたかったと、今でも後悔している。何時間にも渡る打ち合わせの間じゅう、なぜもっと打ち解けなかったのだろうか、となんども自問した。

 芳恵は、クールに仕事の話をした。まず大まかな予算と、それから、守るべき納期について語った。会社の名刺は渡したが、緊急のためといって、自分の連絡先を教えることもなく、もちろんどこに住んでいるのとか、家族はいるのかとか、プライベートな匂いのするものは、なにもかも知らん顔して、仕事の話ばかりしていた。

 たとえビジネスの場では、知的に振舞っても、ふたりだけで、外で会ったとき、女らしい細やかな心配りができれば、その落差が大きいほど、魅力は増すはずだったのに、その機会すらなかった。

 三か月間、毎日のように打ち合わせをしていたのに、いちども色っぽい話はなく、最後まで、仕事のできる女としての態度を崩すことはなかった。みんなで打ち上げをしたときだって、芳恵はひたすら介抱役で、ひとの世話ばかりさせられているうちに、かれは、姿を消して、別の仲間と二次会に行ってしまった。

 ばかなわたし、肝心なところで実力を発揮することができないのだから。自分がなんとも思っていない人に、好かれたって仕方がないのだ。不特定多数のファンがいたって、何になる。


 芳恵は、ロビーにいる章夫が同じように退屈しているのを知ると、ゆっくりと近づいてこういった。

《こんなところで、お会いするなんて奇遇ね》

《ぼくたち、以前にあったことがありましたか。》

 章夫の言い方は丁寧だったが、無関心を表している。

《ええ、二年程前に毎日仕事の打ち合わせをしていたでしょう。》

《それなら、たぶん兄貴の方ですよ。ぼくたち双児でもないのに、よく間違えられるのです。》

それなら、あなたのほうでもいいわ。わたしは退屈してるし、あなたもそうみたいだから。

 芳恵は黙って、隣の席に座り込んだ。



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