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 大人の定義 ─十五歳は子供か─



 十五歳は子供だろうか。ふとそんな思いに、駆られた時期があった。去年十五歳の夏頃からの、自分自身への問い掛け。そして周りの世の中を見渡しての、私の感想。十五歳のうちに決着をつけたいと、三ヶ月もぐずっているうちに誕生日が来てしまった。書き直す前の古い原稿を読み返しながら、再び考えてみようと思う。

 私の好きな作品がある。「新機動戦記ガンダムWウイング」という名の、三年程前(一九九五年四月〜一九九六年三月)に放送されたアニメに端を発する作品である。今では書籍・ラジオドラマ・映画にもなり、幅広いジャンルに渡っている。簡単に言ってしまえば、五人の少年達が最強のガンダムで戦っていくストーリーなのだが、そこには複雑な舞台背景と大勢の登場人物と様々な想いとが交錯する。舞台は今から約二百年後の地球と宇宙、登場人物は主人公の五人が全員十五歳で、他の主な脇役達も十五歳と十九歳ばかりが並ぶ。当時十二歳だった私にしてみれば、「あぁ格好良いな」と思うだけの対象であったが、今頃になって疑問を持つようになった。登場人物の考え方や行動が、はたして年相応のものだろうか、と。

 中三の初夏、私の家ではインターネットに接続するようになった。私はさっそくガンダムWを検索してみたのだが、間違って入ってしまった初代ガンダムページの居心地が良くて、すっかりそこに入り浸ってしまった。インターネットにはチャットという機能があり、これを使うとコンピュータ越しの複数の相手とリアルタイムに会話ができる。文字だけの会話となるので、意思伝達が上手くいかずに起こるいざこざもしばしばである。インターネットというと仮想現実世界などと言われ、あたかもそこに造られたもう一つの世界が別の空間として存在するようなイメージがあるが、実際は違う。私もそうだったが、初めてチャットに参加する人は、ほとんど何もわからず、礼儀を守れないことが多い。しかしそこには現実と変わることのない社会の常識があるのだ。とくに初代ガンダムは二十年前のアニメであるため、三十代四十代のファンの方が多い。大人ばかりだったため、同年代と過ごすよりたくさんの常識を教わったように思う。その頃に私は、早生まれであるがために十四歳だった。大人の方から見れば、まだほんの子供にしか見えないのだろう。悪い意味ではないが、からかわれることが多かった。自分ではそんなに子供だと思っていなかったものだから、心の中では不満に感じていた。

 しばらく経って、私はやっとガンダムWのページを見つけた。そのページのチャットには、十九歳〜二十代前半の大学生達と、会社で働く若い女性達の姿があった。そこには仕事のかたわらに五分十分に一回発言するくらいの、ゆっくりとした会話があった。私もよく常連客として参加するようになり、その度に長居をしていた。

 インターネットの産物の一つに、メーリングリスト(略称はML)というものがある。普通、個人でメールアドレスというものを持っているが、これはいわば家の住所アドレスのようなものである。友人のメールアドレスに手紙メールを送れば、相手がそれを読み、返事をくれる。このメールアドレスを一つの集団で一つ持っているのが、MLメーリングリストと呼ばれるものである。集団で持っているため、そのアドレスに手紙メールを送ると、集団に属する人全員に同じ内容の手紙メールが配送される。集団の中で手紙メールがやりとりされるのが通例で、非常に時間差のあるチャットのようでもある。私は今、すべてガンダムWなのだが、三つ程のMLに所属している。そのうちの一つはとても活発で、現在日に三十通余りが流れている。去年(一九九八年)の夏には日に二百通流れる程の活発さで、ついてこれずに脱退された方もいらっしゃるらしい。その頃の話題で、今も私を悩ませるものがある。ガンダムWでは十五歳の少年達が活躍するのだが、彼らはとても大人びた考え方をするという意見である。「Wキャラの生き方」という題名サブジェクトのもと、幾つもの手紙メールが飛び交い、私自身も何度か投稿した。

 ガンダムWの主人公の一人に、こんな台詞がある。「命なんて安いもんさ。特に俺のはな。」この台詞を、果たして今の十五歳が本気で言えるだろうか。ある方は言う、「私は彼らを十五歳として見ていない。」と。またある方は言う、「戦争という時代に生きた彼らだから、そんなふうにしか自分を考えることができなくなった。」と。やはりそれは作り話なのだから、多少現実離れしていて当たり前という指摘もあるだろう。私ですら、こんなことを考えている自分が莫迦らしくなったこともある。今の平和な日本で、私は世間に甘えて生きているのだろう。しかし周りがどう言おうと、私にこんなことを考えるきっかけを与えてくれたことは、とても有り難いことだと思っている。そうでなければ、私は疑問すら抱かずに、十五歳という年齢を教授していたことだろう。

 ガンダムWを見ていた頃、私はまだ十二歳で、ほんの子供に過ぎなかった。その年齢からしてみれば、三つも年上の彼らはひどく大人びて見えた。いや実際、大人だと思っていたに違いない。だから去年誕生日を迎えてやっと彼らと同い年になったというのに、最後の最後まで実感が湧かなかった。それは何処か遠い世界にいる大人を見上げる感じで、あの論争のときもものを言っていた。十五歳の視点からと銘打ってあの議論に参加していたのだ、同い年という自覚のないままに。ようやく彼らが身近に思えてきた頃、私はついに十六歳になってしまった。追い越したはずなのにそれは年齢だけで、考え方は変わらなかった。十五歳を終えた私は、同年代クラスメイトと同じだけの知識量を増やしただけで、生き方を変えるまでには至らなかった。やはり私はまだ、子供なのだ。

 登場人物の主な脇役のうち、十九歳の設定の者が半数を占める。私はやはり彼女らを大人だと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。チャットで知り合った十九歳の方と比べてみると、確かにはるかに大人びていた。言動ひとつとってみても、とても未成年には思えない。あの論争でも話題にのぼったが、年齢を当てはめるなら二十代〜三十代という意見が圧倒的だった。十五歳だった私が見上げてみても、確かに妥当ではないかと思ったものだ。だが、それから少しも経たないうちに、私は別の問題につきあたった。一般に「大人」と呼ばれるものが、どういう集まりを示すのかわからなくなったのだ。

 私は昔から、「大人」とは、頭が固くて考え方が複雑で知識が多くてたくさん生きている人だと、そんなふうに位置づけていた。それでも最近は「笑う大人」をよく見かけるようになり、「頭が固くて」という考えがぐらつきはじめている。考えてみれば、中学の時は楽しい先生方ばかりで、面白い話をたくさん聞いたものだと思い出す。先生方は大人である。そんな大人達を見ていたのに、何故私は今まで気付かなかったのだろう。「大人」の中にも、頭のやわらかい人がたくさんいるというのに。

 私がよくお邪魔していたチャットには、職場から参加される女性が多かった。その方々は本当に楽しい人ばかりで、良い意味での「子供のように」無邪気な方だと思ったこともある。夏休み、私は宿題片手によくチャットで遊んでいた。それこそ朝から晩までずっとつなぎっぱなしだった。お昼時になると、ほぼ同時に参加者達は抜けていき、お昼を食べ終えるとまた参加するということを、毎日繰り返していた。そんな方々を見ていて今思うのは、「大人」にも様々な種類があるのだということ。私よりたくさん生きて、私よりたくさん知識を備えた「大人」達の中には、私よりもたくさんの遊び心を持った方々がいるということ。社会の常識も礼儀も、そういった方々と接することで、私は少しずつ学べたような気がしている。

 先ほど述べた「命なんて安いもんさ。特に俺のはな」には続きがある。この台詞を言ってから少し間があくのだが、最終話での、「俺は死なない」という台詞へと結ぶのである。この主人公は、戦争のための兵器として育てられ、感情を押し殺した生き方をしていた。何よりもまず任務を優先させた彼は、自らの死すらいとわない戦いを強いられてきたのだ。そんな少年が、最後になって言ったのだ、「俺は死なない」と。命を掛けた最後の戦いの中で、死んでもくいとめねばならなかった惨劇の卵を、彼は見事阻止してみせ、そして生きて帰ってきた。TVの前で、多くの人が手を叩いて大喜びしたことだろうと思う。彼の成し得た偉業と、そして何よりも彼自身の発したこの台詞に。それは一人の少年が、殺人兵器から感情のある人間へと成長した瞬間だからだ。たかだか十五歳の少年が、初めて見せた年相応の言葉でもあるからだ。今の私から見ても大して変わらない年齢なのに、彼はずっと「大人」を演じ続けていたのだ。本物の大人と変わらぬ知識をたたえ、そして心までも大人のふりをして。

 思うに「大人」というものは、人の価値観が決めることなのではないか。私が大人を「頭の固い人々」だと思っていたように、そう感じる人はまだ多くいることだろう。しかし今の私には広がり過ぎて見え、「大人」という一言で片付けることはできない。そこには頭の良い人、悪い人、固い人、やわらかい人、楽しい人、つまらない人、他にも様々な要因が重なって、ひとつの事象を構成するのだろうと思う。私は考え方や行動だけを論点にとらえてきたが、更に広く範囲を持てば、身体的要素も加わってくるのだろう。

 十五歳は子供だろうか。私はそうは思わない。今の私は、十五歳を抜けたばかりの今の私は、やはり同年代の仲間クラスメイト達を見て「大人」だと感じることが多くある。三十代四十代の方から見ればまだまだ子供なのであろうが、大人のようにものを考える人もいる。私自身はまだ自らを子供だと思ってはいるが、一年前から見ればやはり少しは成長している。もうあと何年もしないうちに未成年でなくなるのだから、今のうちに子供であることを楽しんでおこうとも思っている。

 十五歳は子供だろうか。それは一言で答えが出せる問い掛けではない。人それぞれの価値観と様々な要因が決めることであって、客観的に定義されるものではない。私が大人になったら、またこの問題を考えてみたいと思う。見下ろした場所には、今と違う十五歳が見えてくるかもしれないから。



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 あとがき

 あーなんかえらそうなこと言ってるよ(ぼそっ)。

 構想3ヶ月、書き上げ(一発書き清書)6時間。400字詰め原稿用紙にして11枚の作文。(課題では小論文となっているが、こんなの小論文じゃないと思ふ・爆)。約2箇所の脱字(しかも同じ漢字)と多少(もとい多大)の語弊を含む恥ずかしさ大爆発の文章(謎っ)。
 書いたのは2月28日。確か締めきり前日(←恒例・爆)。脱字の部分は、ここでは追加しておきました。ないと嘘が増えるので。あとは漢字も表現も句読点もそのまんま。数字も縦書き原稿のままで直すのやめました(爆)。やや上気味の小さな文字ですが、そのすぐ前の漢字にふってあった読み方です。

 しっかしこんなもの学校(の授業)に提出したのか、自分わ。「国語表現」って授業ですが。が、先生は「A゜」とかくれました。有り難きことなりけり。そして3学期の評定(5段階で)5でした。をを。

 結論。
 あぁ、書き直したい(フォントでっかく)。と書いてつっこみたいとも読む。‥‥またかよ。いやしかし書き直そうとすると、また違う作文になりそうだし。あちこち直したい表現山々ですが、かえって手をつけたくないというのが本音かな。
 長い長い駄文におつきあいいただき、誠に有難うございました。

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